▼ <特集>思い出の夏合宿

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10回生 岡山晄生さん NOW WRITING!

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22回生 篠原仁さん NOW WRITING!

23回生 澤村誠さん 掲載日:1999/05/31
 
 あつい・・・。眠れぬ熱帯夜。翌日の練習にひびくと知りながら、深夜涼みに合宿所の 前庭に出る。先輩方も「寝ないともたないぞ」と注意しながら木のサンダルをガラガラ鳴 らして前庭に出てくる。検見川の夜は昼間と違う先輩方の姿に出会う。言葉をかけてもら えると先輩の仲間入りができたような嬉しさがあった。合宿には参加するという重みがあ った。振り返れば良き思い出として今心に甦らすことができる。しかし、実際は初めての 合宿には、先輩やOBの方々にすがらなければ最後まで合宿を生き抜けないのではないか、 という悲痛な不安もあった。「食べていれば倒れない」と言われ、その言葉を信じて食堂 では本当に一生懸命食べた。うまいと思ったことはないが、どんぶり一杯飯を食べると「 俺は今日は絶対に倒れない」と信じた。練習が始まるとすがるものは全くなくなった。普 段優しいOBの方々まで険しい顔をしていた。仲間が倒れたり、泣いたりするといよいよ必 死になった。初参加の同期の仲間のことを思いやる余裕はなかった。丘の上の陸上競技場 には芝があり、その周りには雑草と松がある。時折、その松の間を抜けて風が吹き上げて くる。芝も雑草も汗も一緒になったにおいが今でも忘れられない。

 しかし、いつしか合宿は良い思い出になってしまった。夜、道路に出ると外灯に惹かれ て飛んでくるカブトムシがアスファルトにうまく着地できず、音を立てて転がっている。 グランドの夜は暗かった。草むらや池が昼のゴルフコースでは決して見せない存在感を持 ち、大地の起伏が芝をたたえてサンダルで歩くと気持ちがいい。闇の中を離れて歩く仲間 達は顔は見えないがいつもより近く感じた。検見川の夜のとばりは絆を露わにしてくれる 。

 練習中、フィールドに立っていると、肩に黄色い蜘蛛が落ちてきた。周りに木もないフ ィールドに天から降ってきた蜘蛛は白い糸をまだ着けたままだったように想う。蜘蛛は自 らのはく糸を風に乗せて大陸までわたると言う。黄色い蜘蛛は真夏の青い空と緑の芝の間 で何かシュールな色合いを造り出した。同時に「盲亀の浮木」を思わせる時間が凝縮した ような不思議な出会いだった。そして、また何事もなかったように練習が始まった。いつ からこんなに気持ちに余裕ができたのだろう。

 苦痛と不安しか感じなかった最初の合宿も大地や仲間と一体感を感じた合宿も今思えば 同じ尊さを持って胸に迫る。誰も成り代われぬ自分の体験をいただいたのだ。

24回生の方、ご連絡下さい!

25回生 河村豊さん NOW WRITING!

26回生 宮崎博之さん 掲載日:1999/06/16
 
やはり合宿の思い出といえば水との戦いです。
我々の頃は練習中に水を飲むなどもっての外でした。
そこでみんないかに練習中に隠れて水を確保するかで苦労しました。
タオルに含ませたり、帽子を濡らしたりしたものです。 それを合宿所からグラウンドまでいかに乾かさないで 持っていくか涙ぐましい努力をしたのを覚えています。

またグラウンドでは乾かないように日陰を見つけて太陽が動くたびに タオルを日陰の動きに合わせて動かしたりしました。
ただいつからか忘れましたが時々カルピスをヤカンに入れて持っていく事も有りました。 しかしこれがたびたびアリの襲撃を受け、 コップに注がれたカルピスの黒と白のコントラストが あの時ほど悲しく思ったことは有りませんでした。

ちなみに私たちの時も中日の肝試しはありました。
ただ高学年になると肝試しと称してどこかに抜け出して行ったのを覚えています。
もちろん先輩が連れていってくれたのですが。 どこへ行ったかはご想像にお任せします。

27回生 石黒裕朗さん NOW WRITING!

28〜32回生の方、ご連絡下さい!

33回生 増田裕さん 掲載日:1999/05/31
 
 ”地面からくるムッとする湿気と土と芝の香り。”

最近,本格的に始めたGOLFをしていると,思わず, 検見川の夏合宿を思い出します。
 芝刈り後の青臭いにおいと,きつい坂上がりの ダッシュがセットで体に,脳裏にしみついている 様です。最近の夏合宿がどのようなイメージか, よく分かりませんが,わたくし達の時代では, ”地獄の夏合宿”と恐れられておりました。 生まれてはじめで胃液らしきものを見たのも, 合宿前の準備練習の時でした。合宿前は,男子同期 の平野,長谷川,高橋 浩太郎,そしてわたしの4人 で,きちんと練習に出て,合宿に全員参加しようと 真剣に話しておりました。

 合宿でのきつい練習の合間では,木の下に張った テントの横で,やさしい女の先輩方にタオルであお いでいただいたのを覚えております。長谷川先輩, 広瀬先輩,武田先輩は,きちんと走れば大変やさし く介抱していただけましたが,ちょっと手を抜いて いると見抜かれて,厳しく怒られました。

 1970年代後半から1980年代にかけては,諸先輩, 先生方のお働きで,科学的トレーニングの導入が盛んに 行われ,”地獄の夏合宿,暑いきつい夏合宿”の イメージは,だいぶ変わっていった様に感じます。
ラジオ体操からストレッチに移行したり,今では 常識になっているようですが,たっぷり早めに水分 を補給したり,レストを十分にとったトレーニング計画 等々。

最後に,”夏合宿”といいますか,東大附属陸上部 で大変勉強になったことは,精神面だと思います。 特に沢村先輩のご指導による,毎晩のミーティング では,多くの事を学んだように思います。

今でも覚えているのは「寝る前に今日一日を反省 した時,反省は大いに構わないが,決して自分を 攻めることはしないように。」とのお言葉です。 今でも色々考えさせられます。

時代やトレーニング方法が変わっても,夏合宿で得られる, 精神的な鍛錬は,これからも変わらないでいて欲しい と思います。

顧問の島津先生,天野先生,その他諸先輩方には お世話になりました。

実家は笹塚で,歩いて東大附属にいけますので, 今度遊びに行きたいと思います。

※GOLFでバンカーに入っても,ミスショットしても,  精神的に平気で居られるのは,夏合宿のおかげ  かもしれません。

34回生の方、ご連絡下さい!

35回生 大竹 淳夫さん 掲載日:1999/05/09
 
私の記憶が確かならば、私が、陸上部に入部したのは高校1年の終わりくらいの2月位だったと思う。
ゆえに、2年生の時に参加した夏合宿が最初で、最後だったはずです。
1500mの中距離を得意としていた当時、意気揚々と参加したけど ほんと、最初だけ..。クロスカントリーなどその練習は、恥ずかしいほどわたしは、ついていけず、中1から練習をかさねている、後輩達にも 態度だけ、先輩だったかもしれません。その時の後輩諸君、ゴメンナサイ..

最近は、30歳を過ぎて、少し、太ってしまったので、また、走り込みを 徐々にはじめて、年末には、2年ぶりのホノルルを目標として、 体力と金銭力をつけている今日この頃です。

皆さんも、私のように、手遅れにならないように、いい30代を迎えて下さい。

36回生 武野利彦さん 掲載日:1999/10/11
 
 私は、中2、高1、高2で3回と、OBとして2回ほど合宿に参加したと思う。
それだけに、合宿への思いも強かったようで、今から思い出しても様々な場面が頭に浮かび、 それぞれの合宿に参加することが出来て、本当に良かったと思っている。

 私が参加した検見川の合宿所は、新検見川の駅から徒歩で15分位のところにあり、 道をはさんだ向こう側が、広い敷地の運動場になっていた。
ここは、ゴルフのショートコースや陸上のトラック、サッカーや野球のグラウンド(のようなもの?) を備えた他目的運動場になっていて、絶えず色々な団体が使用していたが、 他の団体に陸上のトラックを占領されない限りは、あまり邪魔にならないだけの広さがあった。
このような場所であった為、この合宿での練習は、トラックを中心にというよりも、 むしろ、その起伏の多い地形を利用したクロスカントリー等の練習が、どうしてもメインとなり、 芝に覆われた大地からくる独特の蒸し暑さに加えて、やり方次第では、どこまでも厳しい練習を組み立てることができた。

 一方、合宿所の方はと言うと、正面の門から入って、左から、体育館、トレーニングルーム、 本館(食堂、風呂場、会議室、管理人室等を含む)、そして、新館(?)2棟が並んでいたが、 お世辞にも、きれいと言える施設ではなかった。 合宿の熱気をそのまま持ち込んだような建物の中では、練習前後の生活面においても、自己管理を要求されることになっていた。

 ところで、合宿の日程は、だいたい7月後半から8月後半の期間が多く、顧問の先生と相談して決めることになっていたのだが、この日程の取り方によっ ては、かなり印象の違う合宿になったような気がする。
まず、7月と8月とでは温度や湿度に違いがあり、また、地熱や太陽の角度、日照時間や草木の生え具合等が微妙に違ってくるということ。
さらには、8月後半になると台風がやって来るということもあり、これがやって来ると、低学年としてきた時は、正直言って喜んでいたものだが、 幹部としてきた時には、1日の使い方に頭を捻り、苦労したものだった。また自分の記憶によると、合宿の日程は、何故か? 野球部やサッカー部とかち合うのを避けて、テニス部やバレー部なんかと合わせることが多かったように思う。
同級生から情報をもらって……というようなことは、昔のことなので良く憶えていません?

 グラウンドを使用しての練習は、それぞれの代の幹部が事前に考えた練習メニューに基づいて行われていたが、日向は何と言っても暑く、途中で調子が悪 くなる者は必ず出た。
従って、自ずとあちこちで妥協しない訳にもいかず、全体の7〜8割の練習をこなせれば良い方ではなかったろうか。
実際に練習が始まると、最初のうちこそ和やかな雰囲気であるが、次第に、お互いに無口になっていき、しまいには幹部でさえも不機嫌になってしまうことがしばしばあった。
しかしながら、ひとたび練習が終われば、その緊張感から一気に開放され、後は、楽しい時間が待っていた。

 量だけは多い夕食を皆で食べた後は、会議室でのミーティング。
この時間帯は、ちょうど睡魔が襲う時間帯であり辛いものがあったが、色々な先輩の話を聞くことが出来るのも合宿ならではで、実際、後々為になることが多かったと思う。

 ミーティング後就寝時間までの間は、各自、自由時間となるが、たいていは、上下入り乱れての交流会となることが多く、合宿の醍醐味の一つだったかもしれない。
それにしても、こういう時は、意外な先輩や後輩が大活躍するから面白い。
OBの先輩も含めて普段見ることの出来ないような一面を見たり、部活以外の貴重な話を聞けるのもこの時であり、忘れられない思い出となっている。
と同時に、高学年になってから、役に立つような話(ネタ)は、こういった機会に盗ませてもらったような気がする。

 合宿三日目か四日目の午後は、”なかび”として色々なことをやった。
中日の主旨としては、アクティブ・レスト(Active Rest)と言われ、以前から学校の練習の際に、ポートボール等を良くやっていたのだが、 合宿ではこの中日に野球をやるようになっていた。自分は、これでも小学6年まで3年間ほどリトルリーグで硬球を使いつつ練習をしていたが、 はっきり言ってセンスが無い(要するに下手)ので、誰も信じてくれなかったろうと思う。
この間、女性部員にも参加してもらっていたが、だいたいは見学していたり、バトミントン等をやっていたような気がする。
暑い合宿の中でオアシスのようなひとときだった。

 練習も後半に入ると、いよいよ佳境に入ってくる。
私は、外見はともかく、内面は、非常に負けず嫌いな性分だった為、中2の時も、また、高2になってからも、絶えず、「負けるものか!」と言う気持ちで走っていた。
従って、屈強な先輩や後輩が弱ってくる四日目や五日目はある意味チャンスであり、自分自身のピークをこの1日、2日の間に持ってきて、しっかり勝負させてもらった。
それでも、なかなか勝つことはできなかったが・・・。

 最終日、若しくは、その前日は、"記録会"と称して短距離やクロカンコース等のタイムをとる日になっていた。
以降の練習への参考に、という意味合いはあったのだが、この最終日に計る記録というものは、疲労の蓄積によりあまり良くはならないというのが普通だった。
しかし私は、中2の合宿の時に、初めて100Mで14秒台にのせることが出来た。
小学校の時に、15秒6と言う記録を出して以来、なかなか15秒と言う壁を破ることができず、体育の時間や体育祭等で、非常に悔しい思いをしていたのだが、 それだけに、正式な計時といえないまでも、14秒台の数字が出たということは、私にとっては、何よりも嬉しいことだった。

 合宿の全ての日程がめでたく終了すると、合宿所の門前に横一列に並んで一礼、そこで事実上解散となる。
それから先は、それぞれ色々な思いを秘めて帰途につくこととなった。
部長やキャプテン、特に、高2くらいになると、それだけ思い入れも強くなり、ほっとすると同時に、一抹の寂しさも感じていたのではないだろうか。

 今、私は、陸上という世界から離れて10年以上立ってしまった。
しかし、何故か最近、急に再び走りたくなって、少しずつではあるが、走り始めている。
将来にわたって、楽しみながら走り続けられればいいなと思っている。
この、ただただ走ることだけの楽しさを最初に教えてくれたのも、また、この夏合宿だったような気がする。
もう少しトレーニングを重ねて、それなりの走りが出来るようになった時には、OBとしてではなく、一人の市民ランナーとして検見川に来て走ってみたい。
そんな気がする。

37回生 金谷 重成さん 〜夏合宿のあと〜 掲載日:1999/05/09
 
検見川での夏合宿が終わると、国立競技場の大会までの最後の調整に入ることにな る。

それまでの一ヶ月あまりの間、練習のメニューやら参加する準備やらでいろいろと忙 しい。
どんなレースができるかなどとつい気持ちも先走るが、本当は、誰をどの種目にエン トリーさせるか、ひとりでずいぶん考えていたことがあった。

その頃の陸上部は年々その部員数が増え続けていて、練習に出てくる人数も30名を 超えるほどだったと思う。練習の3分の1を占めるストレッチは全員で輪をつくる。
あの頃はその大きさに励まされていたからやれていたような気が、今でもする。
陸上部じゃなくて、かけっこクラブやねと揶揄されるほど、練習そのものは軽くはな かったと思う。それでも週三回の練習に一回はバスケや専門以外のメニューを入れて いたから、ヘロヘロになってる我々のことなど知らないところから見れば、楽しそう に見えたらしい。

本人が全くやったことがなくて大会に間に合ったのは、若山さんの、女子80メート ルハードルだろう。初めての年に彼女が国立で入賞したときには、正直言ってあ然と した。その直前まで10台すべてのハードルを、彼女は数えるほどしかクリアしてい なかったから。運が強いというか、しぶといというか・・・。とにかく、カラダが柔 らかくて才能があったのだということにしておく。

夏合宿が終わった時点で、都大会を完全に狙えるのは橋詰君だけだったが、そのこと で逆に、各自自分のタイムとか調子に気持ちを入れられたのかもしれない。彼が黙々 と周回を重ねて練習している頃、短距離もリレーも、フィールドもそれぞれいい練習 ができた気がする。期待していた彼が本当にいいレースをして、見ていて実にキモチ よかった。

全員がエントリーして参加したその秋の国立は、みんなが活躍するいい大会だった。
誰も知らないと思うが、コーチの田中先生はスタンドで泣いていた。
蒸し暑くてキツかった検見川の夏合宿も、この大会が終わる頃には意外といい思い出 話になっちゃってる。それは陸上部の夏の合宿の、いい伝統なのだと思う。

※編集者より
当時、田中千鶴先生、田中祥子先生という同姓の女性のコーチ・顧問の方が入れ違いで2名いらっしゃいました。
どちらの田中先生にも非常にお世話になり、陸上部に新しい練習法なども取り入れて頂きました。
文中の田中先生は、槍投げの名手、田中千鶴先生のことであると推察されます。

38回生の方、ご連絡下さい!

39回生 小谷佳靖さん NOW WRITING!

40回生 若山由多香さん 掲載日:1999/05/21
 
当時は、7月の終わりの、一番暑い時期に行われていた陸上部の合宿。
私の知っている限りでは、熱射病や脱水症で本格的に倒れたりする人も出ず、何と言うか、丈夫でしたね、みんな。

  朝練、午前、午後の練習、夕食を挟んでミーティング。またあの会議室が暑かった!!入浴剤か、はたまた汚れか、怪しい色のお風呂。順番待ちが大変な洗濯機。夜は埋まってしまう電話ボックス。当時は携帯電話なんてヤ○ザの持ち物でしたから。

つらいつらい、永遠かと思うような練習中は、何と言っても、休憩の時に配られる蜂蜜漬けのスライスレモンが最高でした。涼しい木陰で飲むレモン入りの水。入れ物こそ薬缶と湯飲みでしたが(笑)、何ものにも代え難いものでした。そう言えば、誰が使った湯飲みを次に使うのか、といったことにも神経を使っていたような思い出があります。

中日恒例の野球は、男性陣は結構本気で楽しんでいたようですが、女性陣にはただのひなたぼっこでした。外野の守備につきながら、しりとりをやっていた記憶があります。どうして野球にこだわっていたんでしょうね? もう一つ、肝試しがありました。う〜ん、青春の1ページですね(笑)。ペアを決めるくじ引きに仕込みがあったかどうかは当時の幹部学年のみ知っている、ということでしょう。さらに、肝試し中の2人に何があったかは・・・神のみぞ知る。 近所の公園で夏祭りをやっていて、その日だけは外出OKでした。お祭りでもいろいろ・・・墓穴掘ることになるのでやめておきます。あの頃の合宿の日程は、実はお祭りに合わせられていたのではないかと思ったこともありますが、実際はどうなんでしょう?

合宿中の練習ノートは、今でも捨てられずに取っておいてあります。先輩方からの励ましのコメントが嬉しく、見せ合いっこしていました。自分が幹部学年になって、コメントを書く側にまわったときには緊張し、悩んだものです。

我々40回生は比較的人数が多く、入退部もかなり激しくありましたが、個人競技の割には妙な(?)連帯感があったように思います。それもこれも部長の橋詰君のおかげです(ヨイショっと)。

なんだか、うれしはずかしな思い出ばかりになってしまいました。それだけ充実してたんだと思います。今、合宿をやるから出ろと言われたら・・・嬉しい反面、死んじゃうでしょうね。

41回生 吉川香織さん NOW WRITING!

42〜46回生の方、ご連絡下さい!

47回生 木村貞晴さん NOW WRITING!